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2007年10月 4日, 木曜日

『水の上にパンを投げよ』

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の牧会している教会の側に小さな川が流れている。教会堂と駐車場の間に流れるこの川は、以前は汚い臭いどぶ川だったのに最近は定期的に清掃する「きれいにする会」のボランティア活動のおかげでだいぶきれいになってきた。鯉は以前から泳いでいるのが見られたが、最近では鮎がとれたとの情報もある。僕も小さな川魚が泳いでいるのを目撃しているし、カワセミも見かけたのでだいぶ昔の自然に近くなったのだろう。駐車場に車を止め、その小川にかかる橋を渡ると教会堂がある。いつもその橋を渡るたびに川をのぞき込む。これが僕のほっとする時間なのだ。

ころで、先日うれしい便りが届いた。差出人に思い当たる人がいなかった。どうやら十数年前に京都の少年院に歌いに行ったとき、そこにいた方だということがわかった。彼はそのコンサートで僕の証しを聞き、最後に「この中で自分もイエス様が必要だという人は手をあげてください」と言ったすすめに応えて手をあげた中の一人であったらしい。残念ながら彼は少年院を出所してから再び犯罪を犯してしまい、現在は刑務所に収監されている。しかし、神様は不思議な事をされるものだ。彼は刑務所で「パワー・フォー・リビング」を読み、僕の証しに再び出会った。また、ミッションバラバの鈴木牧師の本を読んだら、そこにも僕の名前を見つけた。そして十数年前の事を思い出し、現在は聖書の学びをして近々洗礼を受けるのだという。教誨士の牧師にお願いして、僕の教会の住所を探しあて、わざわざ手紙を書いてくれたのだった。

駄を省き、すぐに結果を求める、現在は効率優先の時代だ。水の上にパンを投げるなどというのは見向きもされない。しかも、ずーっと後になってそれを見いだすなんていう忍耐はない。しかし、福音宣教というのは、誰かが無駄を覚悟で種を蒔かなければ実を結ぶ事はないのだ。特にこの日本ではなおさら無駄をいとわない伝道の働きが求められているのだと思う。明治の初期、日本最初のプロテスタント教会設立に貢献したブラウン宣教師はこう記している。「伝道地としての日本は、人が行って種さえ蒔けば良い畑になる土地ではないのです。日本の土地に蒔く種は、石地に見つけられるほんのわずかな裂け目にでも、機会あるごとに、そっと落としておかなければなりません」

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